湯のみの横で、画面にネットの百科事典が開いています。ほうじ茶全体の起源として書かれているのは、製法の節の一文だけです。年も土地もそろった、覚えやすい一文なのです。

この文章では、その一文の脚注をたどり、起源の話を裏づけの強さの順に並べ直していきます。

脚注の先の、通販のページ

脚注の小さな番号を押すと、画面がふっと切りかわります。その一文の行き先は、ほうじ茶を売る会社の自社ページだったのです。

海の向こうで始まった、ほうじ茶の通販ブランドのページです。茶商が残った葉や茎を焙じた、とだけ書かれています。参考文献は、一つも挙がっていません。

この説を裏づける一次資料は、今回の探索では出ていません。資料で言えるのは、ここまでです。同じ百科事典でも、棒茶の節は少しちがうでしょう。

同じ記事の、棒茶の節

画面を下へ送ると、茎のお茶の名前が見えてきます。同じ記事でも、加賀棒茶の節は裏づけがちがうのです。

木の年輪のように、話の古さは添えられた資料に刻まれています。三代目の茶商が茎から「ほうじ茎茶」を考えたという話には、古い名鑑の広告と人名録が脚注に付いています。一つの記事の中でも、起源の記述には強さの差があるのです。

資料で言えるのは、脚注の種類のちがいまでです。この棒茶の話は、国の側の資料にも出てくるでしょう。

国の図鑑にのる、茎の工夫

湯のみの棒茶から、乾いた茎の香りが立ちのぼります。加賀の話は、公的機関の側にもあるのです。

国の伝統食の図鑑は、ある茶商が乾かす途中で出る茎の使い道を開き、加賀棒茶を売り出したと紹介しています。通説より二十年ほど早く、土地も原料もちがうのです。

のちには菓子の会社が売り出した記録もあり、章末のコラムで触れています。ある県の茶の研究所は、焙茶機の考案についての研究報告を出しました。ただしこれは、書名だけを確かめたものです。

長い歴史をつづった茶どころの公式史には、ほうじ茶も焙じる工程も出てきません。資料で言えるのは、ここまでです。つぎは、古い領収書の束でしょう。

領収書の、上・中・並

茶舗の棚には、上と並の値札が並んでいます。戦前の港町でも、焙茶はもう等級をつけて売られていたのです。

ある研究所の支出の証憑に、並焙茶と中焙茶、焙茶と上焙茶を買った記録が残っています。上・中・並の等級が、その帳面にそろっているのです。

等級がつくのは、選んで買う人がそれだけいたということです。資料で言えるのは、ここまでです。最後は、始まりの年をどう読むかでしょう。

脚注を開く、という手

湯気が細くなるころ、画面の一文が少しちがって見えてきます。始まりは、一つの年と一つの土地には決められないのです。

川の源が、いくつもの沢に分かれているのと似ています。決まっていないことを、決まったようには書かない。この本は、そこに立っています。

かわりに、読む側で使える手がのこります。起源の話に出会ったら、脚注の行き先を開いてみることです。公的機関の資料か、売っている人のページか、それだけで同じ一文の重さが変わるのです。

資料で言えるのは、行き先の種類までです。年と名前は、このあとにまとめて置いておきます。

数字でくわしく

通説の一文
日本語版ウィキペディアの製法の節です(2026年7月20日版)。「今日の製法は、1920年代に京都において確立されたといわれる」とあります。
脚注の先
2018年にトロントで始まった通販ブランドの自社ページです。1920年代に茶商が葉や茎を焙じた、とあります。
棒茶の節
三代目林屋新兵衛が1902年に「ほうじ茎茶」を考えたとあります。脚注は、1916年の商工業名鑑の広告と1928年の人名録です。
国の図鑑
農林水産省「にっぽん伝統食図鑑」です。明治35年(1902年)に、金沢の茶商・林屋新兵衛が加賀棒茶を売り出したとあります。
菓子の会社
大正14年(1925年)に、東京の菓子会社が発売した記録があります。
焙茶機の報告
埼玉県茶業研究所が、1942年3月に『焙茶機の考案に關する研究報告』を出しています。書名だけの確認です。
茶どころの史
京都府茶業会議所の、800年をたどる公式の歴史です。
領収書
横浜の大倉精神文化研究所の支出の証憑です。1936年(昭和11年)の「並焙茶1斤、中焙茶半斤」「焙茶1斤、上焙茶1斤」です。
この本
書名は『お茶は、焙煎でもっとおもしろい』です。