棚に、加賀棒茶と献上加賀棒茶の袋が並んでいます。どちらの袋からも、乾いた茎の香りがかすかにします。名前は似ていても、出発点はちがうのです。

この文章では、茎を生かして地域に広まった話と、目指す一杯から原料を探した話の、二つの時代をたどります。

茎を生かす工夫が、町へ

茶を選り分けたあとの台には、細い茎が山になってのこります。加賀棒茶は、その茎を生かす工夫から広まったのです。

種が風に乗って野に広がるように、作り方は人から人へ渡っていきました。国の伝統食の図鑑は、ある茶商が茎を生かす方法を開き、加賀棒茶を売り出したと紹介しています。製法が公開され、県の内へ広まったとされています。

一つの店が売り始めたお茶が、作り方を伝えることで地域へ広がっていきます。ここでの加賀棒茶は、一社の商品だけを指す名前ではないのです。資料で言えるのは、ここまでです。つぎは、ずっとあとの時代の一杯でしょう。

宿で出す一杯の、原料さがし

宿の部屋の湯のみに、注がれるほうじ茶があります。その一杯のために、全国の茶園から原料が探されたのです。

ある製茶場の回顧では、天皇が植樹の式典でこの県を訪れるとき、宿で出すほうじ茶の依頼がありました。同社は全国の茶園を探し、遠い南の産地の一番摘みにたどり着いたと説明しています。

そこで、この土地で飲んでもらうお茶として、棒茶に仕立てました。地域のお茶であることと、原料が同じ地域で育つことは、かならずしも重ならないのです。これは一社の回顧で、言えるのはそこまでです。つぎは、その一杯の火の入れ方でしょう。

浅い火と、すっきりした味

棒茶の湯気から、軽い香ばしさが立ちのぼります。目指されたのは、香りを保ちながらすっきり飲める、浅い焙煎だったのです。

回顧には、原料を選ぶだけで終わらず、どう焙じ、どう淹れるかまで考えたことが記されています。焙じるなら強い香りを、と一方向に考えたのではありません。香りと飲み心地を、同時に考えた開発です。

何を使うかと、どこまで火を入れるかが、一つの目標に向けて組み合わされているのです。資料で言えるのは、回顧に書かれた考え方までです。つぎは、売り出したあとの話でしょう。

高い値札と、ゆっくりした広まり

棚の値札の前で、手が少し止まります。献上の翌年の商品化は、すぐに実ったわけではないのです。

冬の土の中で芽が春を待つように、新しい商品には受け入れられるまでの時間がありました。同社は、献上の翌年に商品化したと説明しています。ただ、ほうじ茶としては値が高く、はじめは売れ行きが伸びなかったと振り返っています。

のちに、高級な棒茶という考えが受け入れられていったというのが、同社の回顧です。特別な依頼に応えるお茶と、ふだん買ってもらう商品は、同じではないのです。言えるのは、一社の振り返りまでです。最後は、二つの話の重なり方でしょう。

地域のお茶に、重なる歩み

二つの袋をもう一度並べると、同じ茶色の茎が見えます。地域のお茶の中に、一つの商品の歴史が重なっているのです。

一本の木に、あとから枝が伸びるのと似ています。古いほうの年にたどるのは、加賀棒茶が地域へ広まる歩みです。新しいほうの年にたどるのは、献上加賀棒茶が生まれたきっかけです。地域のお茶の中で、原料選びや焙煎、商品化の試みが重なってきました。

二つの年を知ると、袋の二つの名前の見え方が変わります。似ているから同じ話なのでも、ちがうから無関係なのでもないのです。資料で言えるのは、ここまでです。年と名前は、このあとにまとめて置いておきます。

数字でくわしく

図鑑の記述
農林水産省「にっぽん伝統食図鑑」の、加賀棒茶の項です。
始まりの年
明治35年(1902年)に、金沢の茶商・林屋新兵衛が茎を生かす方法を開き、加賀棒茶を売り出したとあります。
広まった先
製法は公開され、石川県内へ広まったとされています。
回顧の出典
丸八製茶場「加賀棒茶が、献上加賀棒茶になるまで」です。
献上の年
1983年、昭和天皇が全国植樹祭で石川県を訪れる際、宿泊先で出すほうじ茶の依頼がありました。
原料の産地
全国の茶園を探してたどり着いたのは、鹿児島の一番摘みでした。
商品化
献上の翌年に商品化し、ほうじ茶としては高い値で、当初は販売が伸びなかったとしています。